A.O氏講義ノート2
ヨーロッパにおけるルネサンス以前、人間は「工作する人(ホモ・ファーベル)」だった。
ルネサンス以降、人間はクリエイティブな存在となる。ミケランジェロやダヴィンチという偉大な芸術家をモデルとして、特に、18世紀(啓蒙の時代)以降、人間は「創造する人(ホモ・クレアトール)」となる。
「創造する人」とはどんな人間だろうか。
ルネサンス以降、人間はどのように変わっていったのだろうか。
中世以前、悪魔払いや脱自(エクスタース)によってとられていた生のバランスは、18世紀以降、医学により病名を付け、治療する制度へと変わっていく。これまで在野の中に描かれていた狂人(乱舞、道化、愚者、妄信など)は治療の対象として精神病院へ集められた。
そこには、医学により裏付けられた「正常な人間」と「病人」が生まれた様子が窺える。
政治においては、いわゆる啓蒙の思想(自らの足で歩くことを規範として取り入れ、それを広めていく)に染まった人々が現れ、理性による契約で社会を作ることを主張するようになる。正常な理性は契約の条件となる。
一方、自然科学が体系化する中で、職人的な技術レベルから脱却した、科学者という存在が生まれてくる。
彼らは、社会的な判断を中断した、科学合理的な知識の体系を作り出した。科学者は、科学の方法において万能であった一方で、科学の方法により自らが生み出したものを、実際の社会において自ら判断して使えないという意味で無能でもあった。
現代の私たちの間には、自らの努力により獲得できる「本当の人間」「本当の自分」のイメージが広く流布している。誰もが理想的な人間の像を持っている。その理想的な人間像を成り立たせるために、私たちは無意識かもしれないが、必ず、人間と対比された動物性と、正気に対比された狂気を想定している。
「創造する人」は、政治的に脱色された万能の科学が生み出す技術を駆使して、啓蒙の思想により自らの理性で判断し行動し、範囲を広げてきた。
その裏で、動物性を想定しながら。
その裏で、狂気を想定しながら。
この、「本当の人間」「本当の自分」がいるとする思考を「同一性の思考」と呼ぶ。
これは暴力の可能性を多分に含む。例えばアウシュビッツを省みればよい。理性と呼ばれるものが非情な狂気を生む。究極の動物性を生む。
だから、今、フロイトに注目する必要がある。
「本当の・・・」というイメージが、そこにあるであろう実体からズレるという事実に注目する思考を「差異の思考」と呼ぼう。人は、言葉で捉えようとしたとき、必ず取りこぼし、また言葉の枠をすぐにはみ出してしまう。そのズレに注目しよう。そのズレの持つ力がまた、見えてくるかもしれないのだから。
「差異の思考」とはなにか。次回以降また考える。