理論と実践をつなぐ判断としての美的感覚②

私達は、人に言ってもダメだったとき、「あの人のこだわりだから・・・」なんて言う。
理屈でわかっているはずなのに、そうしてしまうこだわり。そうしないと落ち着かないとか、気持ちが悪いというこだわり。人は様々なこだわりを持っている。


どうして人はこだわりを持つのだろうか。
不便なときがあるのに、なぜかいつもの道を通ってしまうとか、同じお店で買い物するとか、好みの音楽ばかり集めるとか。おそらく、こだわりはその人の美的な感覚から導かれるものなのだろう。


様々な世界の事象を、お決まりのパターンで捉えてしまうそういうバイアスをかけるもの、それが人の美的な感覚なのではないだろうか。様々な事象を、毎度、ある一定の形式で捉えることをこだわりとするならば、そのこだわりを導くのは、その人にとっての美的な感覚である。


「モテたい」というこだわりがある人は、様々な現実が、こだわりのフィルターを通ることによってどうしても一定のあるバイアスのかかった理解になる。どうしてそうなるの?と思わせるそのこだわりは、判断をしている感覚に原因がある。


これは、巷で、価値観と呼ばれているものに近い。
人々が価値観の多様化を問題としてあげるとき、多くの場合、「話の通じない相手」を想定している。その、話の通じない相手は、理屈は理解しても、「本質的」には変われないという意味での「通じない」相手である。
この、「本質的なもの」というものが、その人の美的な感覚なのだ。


私達が日常耳にする「あの人は、ああいう人だから」という諦念や陰口が示しているのは、その人の持つ美的な感覚への対応の難しさや近寄りがたさである。だからといって、共に活動するときにはお互いの「本質的な価値観」を尊重しつつ、なんとか私達は行動を共にする方法を模索していく。だから、いくら美的な感覚がその人の「本質」のように見えても、そこから先に進めないものでもない。
つまり、おそらく、一面では「本質」である美的な感覚に導かれるこだわりも、一面ではもう一つの道、オルタナティブに開かれているのだろう。いったいそれは、どのように捉えることができるのだろうか。


つづく