他者を理解する視点とは何か

大野氏の記事へのコメントの中で、AntiSeptic氏が「他者を理解する視点は推論だ」と述べています。
私はこれに反対です。理由は、推論からスタートする他者への理解は論理的な整合性の中に理解の射程が閉ざされてしまうからです。あらかじめ推論として体系付けられている自己の論理に、他者の言葉が回収されてしまうからです。


では、どう「他者理解への視点」考えるかというと、その他者(人、モノ、動植物、テキスト)への関心だと思います。

同コメントの中で、AntiSeptic氏が、「私(shinpants)の『他者を理解しようという視点』とは、要するに好意的な見方に過ぎない」とご指摘されている箇所がありますが、まさにその通り、的を得ています。
私は、自分と異なる世界観を持つ他者に対して理解しよう(つまりコミュニケーションをとろう)と思ったとき、そのコミュニケーションの展望をどこから語るか、視点(まなざしのスタート地点)をどこに置くかというと、好意、つまり、他者への関心だと思います。(これはなんら難しい話ではありません。「その人のことが嫌いでは、そもそも、理解しよう、コミュニケーションしようという気にならない」という話なのです。)


私は、言葉は語っているその人とストレートに結びついている、とは考えていません。論理的に一貫した説明が、その人を正しく表現しているとは思いません。言語で説明することは、必ず語らない部分を生みます。つまり、ある側面を隠してしまいます。常に世界は語りきれないものです。
様々な状況の中で生きている自分と、そういう自分について語りうる姿の部分と、聞き手に実際に語った自分の姿はどれもそれぞれズレを含んでいます。そのズレを含むものとして言語を考えないと、コミュニケーションは自己中心的な、一方通行もしくは表層的な単なる形式に堕ちてしまいます。


では、どうやって説明したり理解したりすればよいのでしょうか。私達がその人の姿を言語でしか明確に理解できないとしたら、他者に関心を持ったとして、そこからどうすればそのズレに立ち向かえるというのでしょうか。
そこでキーワードになるのは対話だと思います。語りきれずにズレていく自分の姿を、お互いに「ズレてるね」と確かめつつ、なにがズレているのかを相互の関心の視点から明らかにしていくこと。それが「関心から始まる対話による理解」だと思います。
このズレを踏まえずに、論理的な整合性に固執していては、「いくら話しても分かり合えない人」になってしまうのではないでしょうか。


人間は論理的に矛盾した行動に満ちた生き物です。しかし、論理に回収しつくせない人間の行為が文化の多様性を生んでいるとも言えます。「推論からコミュニケーションをする」ことが、「理路が整然としていない」ことが理由で、「別に『どういう世界観か、聞いてみたいと』も思いません。」と帰結するAntiSeptic氏の論理に、「推論からのコミュニケーション」が関係を閉ざすことになる(つまりコミュニケーションにならない)危険性を見ます。