学べる人、そうでない人―公共性につながる思考―

 一昔前、ネットの世界は、特別な趣味や技能を持つ人のみが楽しめるところだった。教育哲学の世界も、特殊な業界用語を駆使する専門家が、知的な議論により楽しみを享受していた。
 しかし、いまやネットの世界は通信の高速化と携帯への普及などにより急速に敷居が下がり、コンテンツの一般化が進んでいる。教育哲学の世界は、思想界の相対主義ニヒリズムの蔓延により、人間が生きる意味を問い直すというダイナミズムを失い、経済合理性の論理に、教育の意味を語るという役割をのっとられた。


 ネットはオタクによって運営されていた時代がすでに終わり、「リア充」により侵食が始まっていると言える。教育哲学の世界は、「もうかる」「かっこいい」「かわいい」という価値を問い直せず、言いっぱなしを批判する自浄作用を失っている。


 旧来からネットに携わる、30代以上のオタク、いわゆる第1、第2世代のオタクは、我が物顔にやりたい放題しだす「新入り」に、どう反転攻勢するのだろうか。教育哲学の世界は、成果主義や自己責任で語られる教育思想にどう反転攻勢するのだろうか。


 どちらにも通じることが一つある。
 それは、ネットや学校というそれぞれが対象とする世界では、日々、新しい実践が刻々と起こっているということだ。ネットがどういう経緯を経て今に至ろうが、哲学がどれだけ知的な蓄積をしていようが、関係ない。現場では、確かに知識と経験は浅いかもししれないが、生き生きした実践が日々起きている。


 ネットや教育哲学が、生きることにつまずいた一部の絶望した若者や研究者の安全地帯だった時代は終わった。
 旧オタクや旧教育哲学は反転攻勢に出ているのだろうか。一方では30代以上にも優秀なネットコンテンツプロデューサーがいる。既に違う理論を立てて、人間や教育をダイナミックに語りなおす教育哲学者もいる。メジャーではなくても、確実に存在する。


 そういう日々変化する現実に開かれていることはとても大切だ。過去の歴史や栄光に誇りを持つことと、移り変わる現実を見ることは両立できる。自分の中に作った規範を少しずつ壊しつつ、新たな意味を学び、変化する生き方は可能だ。この生き方は人間を広く、深くする。そういう生き方をする人は、つまり、学べる人なのだ。
 そして、そこにこそ、人間の根本的な可能性がある。


 具体的な行動に移すことは少ないが、ほとんどの大人は、その「開かれた姿勢」を維持している。現実から学べない大人は、世間知らずと呼ばれる。果たして、旧オタクや旧教育哲学は世間知らずになってはいないだろうか。


 昨今、こだわりを持つことが称揚される世の中になっている。私は自分の変化を肯定できる世の中であって欲しいと思う。それが人の学びであり可能性だと思うから。そうなるように、教育に携わり、地域の活動に参加する。
 公共の場とは好き放題できる場所ではない。こだわりを持ちつつもそれを反省し、学んでいくことに開かれた人のための場だ。誰かが所有できるものではない。理論と実践を往還をする生活から生まれる、ネットワークや生き甲斐が公共性を生むのだ。