理論と実践をつなぐ判断としての美的感覚①

大野氏の記事へのコメントのやり取りから
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20080410/1207843401#c


「恋愛できない苦しみ」を度々味わい、「それが嵩じて非・非モテから言及されることに怒りを表す非モテ」、A氏がいるとする。
このA氏に対して、「なぜモテたいのか」と問うことを烏蛇氏は提案した。
このA氏への問いかけは「暴力的ではないか」と大野氏は指摘した。
ぼくは大野氏に賛成する。確かにこれは酷な宣告だろう。

本人が、生きている世界のこだわりの対象に「恋愛」を選んでいるのだ。
感覚的にだろうが、そういう世界に生きているのだ。
そういう世界で生きている人間に向かって、「なぜそういう判断をするのか考えろ」と言うことは暴力的だし、無責任に聞こえる。

では、人が「恋愛」に生きることは勝手でしかなくて、そういう「恋愛」にこだわることの偏りや副産物について指摘することはできないのだろうか。

A氏がなぜ「恋愛」をこだわりとして選ぶのか、その構造を理解することで、この問いの糸口が見えるかもしれない。

A氏をこだわりへと結び付けているのはA氏の美的な感覚である。
美的な感覚とは、理論と実践の間で、概念と行為の対応を判断する経験的な術である。
美的な感覚とは、具体的な経験を、ある概念の枠組みに対応させる時の判断の術である。


これまで、非モテの議論は、主に二つの方向からのアプローチで議論されてきていた。
一つは、「非モテ」を実際の存在としてどう語るかという、説明、理解の仕方を経験的に追及する方向(以下、『実践型』)で、もう一つは、そうして語られた「非モテ」像が、概念としてどう体系に組み込まれるかを分析する方向(以下、『理論型』)である。
これらの方法は、相互に役割を補い合い、二つのアプローチが、それぞれの領域で新たな意味を見出すことで、議論が保たれてきた。『実践型』は、例えば烏蛇氏の体系的な分析により経験的な語り方のバリエーションを増やすことができたし、『理論型』は多くの経験的な事例をえることで概念体系の広がりを得ることができた。
しかし、ここに来て、Aという、「非モテ」にこだわる生き方は、本人にとって「幸せ」かどうかという問題をどう扱っていいのかという問題に直面している。

これまでのところ、議論がかみ合わず、頓挫している。
これはしょうがない、これまで前提としてきた議論の前提が生み出す必然的な行き詰まりだろう。。
非モテのAに対し、『理論型』の人間は、「その発想自体が偏ってるから、一度よく考えてみたら。」と言う。
『実践型』の人間は、「モテをコンプレックスとするかどうか、それは本人達の勝手だろ。」と言い、
それを受けて、本人Aが「考えた上で、偏ってたっていい。人の弱みに口出すな」と言ってしまう。


はたして、どこから手をつければよいのだろうか。


人間は、二段階で欲望や現実を理解する。
理屈どうこう抜きにして、「なんとかしろ」と自分自身に迫ってくる「欲望」や「現実」を、まず経験的に理解する。この理解はあくまでも、まだ実践の段階でバラバラの状態である。
そして、その実践領域での経験を、統合し、これまでの自分の理解との対応を判断することで、これまでの蓄積で体系付けられている概念の枠組みに組み込む。この段階で、今後の自分の行動に影響する形式的で体系的な「欲望」や「現実」の理解になる。
美的な感覚は、形式的な概念の体系と、経験的な実践の領域とを対応させる、各自が経験により学習してきた一定の基準を持つ感覚である。この感覚が本人の「幸せ」を決める。


つづく