ネット社会のプライバシー考(ミクシィより転載)

Amazonの「ほしい物リスト」で本名や趣味がばれる? ネットで騒動に
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=430512&media_id=32

個人情報が漏れてしまうという点では、ミクシィもしかり。
いくら友人までとしても、何かの経緯で個人が特定され、その言動が槍玉に挙げられる事件も起きている。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0611/14/news057.html

ネット環境は本当に便利だけど、個人情報の管理はどんどん難しくなっていると感じる。
ネットでのプライバシーは今後、どう守られ、どう展開していくのだろうか。


個人情報の管理が難しくなる背景の一つには、情報通信技術の発達による、リアルとバーチャル(ネット)の越境状態がある。それは、アナログとデジタルの越境と言ってもいいだろう。
すでに、デジタル処理の高速化で、アナログ感覚が違和感無くデジタル処理されてネットやゲームで共有できるようになっている。
高速になったネットでは、私の感覚を様々な方法で発信し、共有できるツールが開発されているし、ゲームでは、アナログコントローラーに始まり、Wiiに至っては体の動きそのものがそのままゲームに反映されている。


もう一つには、世の中が、ネット経由の情報と深く関係していることがある。
行政は住其ネットで私達の住まいを把握するし、確定申告もネット経由だ。
テラ牛丼やドライブスルー事件など、ネットの話題が社会問題化し、テレビ等のマスメディアで取り上げられることも、近ごろ目に付くようになった。
3年後にはそのテレビ自体がデジタル化され双方向のネット機能を持つようになる。


この二つに支えられ、いまや、ネット上の「炎上」や「祭り」を実際に起こっている出来事として、「リアル」に感じられる人も出てきた。
ネットという情報の網の目の中に、一種の身体感覚を伴った「私」という存在を実感できるのだろう。実際、自分で働いて得た労働対価としての「お金」が、ネットゲーム等、完結したネット世界の通貨と取引されている。

これまで「プライバシー」は、人が持つ、ある範囲での内・外面の私事性を定義してきた。しかし、リアルと感じる範囲がネット上にまで広がった今、「プライバシー」の再考が求められている。

自分だけの時間・空間という外的なプライバシー権は労働権、環境権などの基本的権利として多く議論される一方で、今後、「誰からも知られたくない」と思う、内面的な私事性(私秘性)は、いったいどうなるのだろうか。
干渉から守られるべきものとしての内面的な「プライバシー」はどこに見出されるのだろうか。
ネットが自由にできる外的な環境がありさえすれば、内面的な「プライバシー」は特に必要なくなるのだろうか。
誰からも干渉されたくない内面などというナイーブなものは、多種多様なネット世界や商品の中に霧散してしまうのだろうか。

冒頭の「ほしい物リスト」において、多くの人が、実名や趣味がネット上にばらされることに危機感を感じる一方、ギフト商品検索のために、顧客の情報をネット上に公開するというサービスも検討されている。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0608/14/news025.html
贈り物に迷ったとき、ネットの調査で、相手の「誕生日、関心、職業、学歴、所得水準、所在地、人種、民族、宗教、性的指向」が判り、「最適な商品」を購入できる世の中が可能なのだ。需要があるなら、いずれ実現するだろう。


この問題を考える上で、ここでは一つ、ネット上でのコミュニケーションの特徴を押さえておく。
ネットでのコミュニケーション(広義の政治)形態は、民主主義の前提とする、自立した個人による主体的な意思決定とは異なっている。
かといって、必ずしも、意思決定を容易にする為の、なにかしらの共同体の物語を共有しているわけでもない。
細分化された趣味嗜好の世界で、世代も性別も地理的条件も超えて、その時々の話題やイメージでコミュニケーションが成立する。
そのため、一人の人は、多様な人格を作ることができるようになる。ネット空間をまたいで、いくつもの人格を同時に持つのだ。
これは、演じるというよりも、むしろ、自分の中にそれぞれの趣味嗜好に対応する様々な「キャラ」が存在していて、ネットの場に応じてその「キャラ」が入れ替わる感覚である。
旧来の、場に応じて自分を装うというアイデンティティ感覚とは異なっていると言える。
従って、装っていない「本当の私」という存在は、様々なネット空間の間でバランスを取るだけの存在となっていて、他者とのつながりを持たない役割として、負担を軽減される。
現代のネットを使うことで、人は、人格を統合させず、オタク的な趣味を方々で作り、それらの趣味嗜好を発展させつつ生きることができる。人格を統合させないで済むことにより、多種多様な「幸せ」の基準と、追求するためのつながりを平行して持つことができる。
これまで、現実世界に固執し、「本当の私」を探し続ける生き方からすれば、はるかに楽で、広がりもあり、幸せそうである。


しかし、そこは、いまや大きな社会問題になっている学校裏サイトでの「ネットいじめ」を含む、「ネット犯罪」の起こる場でもある。
この「ネット犯罪」は、ネット社会をルール化することでなくせるのだろうか。
現在の対策の流れはネットの閲覧制限や禁止等、規制を進める流れだ。
しかし、ネットでの「いじめ」や「犯罪」が、「自由な情報のやりとり」というネットワーキングの特性から出現しているなら、ネットの規制という発想では、根本的な解決は難しい。


私達は、自分達が便利さを追求して作り出した、ネットというシステムを利用することで、「共同体の物語」でもなく、「科学的な合理性」でもない、刹那的であるかもしれないがその時々の話題やイメージから、別な「ありそうなこと」を生み出すことで、それを文化として生活するようになってきている。
この新しい文化的生活により作られた社会は、いままでの魔術的であったり、啓蒙的であったりした「人間」の定義を揺るがしている。前提とする人間像が揺らいでいるから、当然、住みよい社会、公共性の根拠としての民主主義という理念が危うくなっている。


ネット社会のプライバシーを再考する際、すでに、これまでの人間像や共同体の感覚を超えた文化領域を想定しないかぎり、的外れなものになるだろう。