論理的な納得と実存的な欲求の充足をわける

ヘボメガネ氏の日記に書いたこと
http://d.hatena.ne.jp/hebomegane/20070809/1186630134
より。

身をともなった欲求の成就としての、恋愛への欲求を含む「幸せ感」は、理屈を超えた(論理破綻した)ところにあるのだと思います。
後になって、論理を超えたものとして実感するものに論理的計算は成り立ちません。(ただ、実感を対象化して、ああだこうだと論理的な納得のために理屈をつけることはできます。
しかし、その時点で、その実感はもう言語により実体化されてしまい、交換可能なものに変質してしまっているのです。)


この認識の下、私は、あえてファンタジーとわかって、戯れとして、今求める幸せの様子を語ったり、さも、計算できていたかのように、幸せゲットの物語を語ります。


それこそ、私にとって幸せな瞬間です。
人間は言葉で捕らえきれるほど単純ではないな生き物ではないのですから、ファンタジーと戯れ、それに影響されながら、また実感を引き受けていくようにします。


言葉で説明するとどうしても規範的になってしまうのですが、とりあえず、論理的な整合性へのご提案でした。

ここからさらに自論を壊すために、ここに自ら転載します。
さて、突っ込みどころは満載だと思いますが、いかがいたそう・・・。