ショータ氏の日記から「『恋愛への努力』とは何か」

ショータ氏の日記http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20070926#c を読んで考えた。


「恋愛」には確かにコツがあり、努力しておくべきポイント、磨いて光らせる技(アート)が多くある。
その意味で、「恋愛」に向けた努力は必要であり、知らないより知っていたほうが、やらないよりやったほうが「恋愛」がうまくいく。


これは、恋愛相手の個性にさほど左右されず、適度に応用がきく。
さらに、経験と共に身につくものであるため、「恋愛」を経験する度、年齢を重ねる度に上達するとも言える。


例えば、おしゃれ、甘え方、さわやかさ、知的さ、アホさ、落ち着き、愛されるしぐさや表情、話題選択、間の取り方、デートの場所、相手との距離、歩くスピード、感謝の表し方、メールの内容やタイミング、しったかぶりや出し惜しみの仕方、愛想の振りまき方、かまととの仕方、別れの切り出し方、振られ方などだろうか。


これらは、実は、身に付ければ、たやすい。

キャラの確立という言い方もできるだろう。
たくさんつらい恋を経験したり、修羅場を潜り抜けてきた人は、恋愛マスターと呼ばれたり、独特の落ち着きや魅力を備えることは想像に難くない。

ただ、問題は、自分が経験しながら、そこに努力するポイントがあると自覚することが大切であり、さらにその自覚を元に、次なる実践をもち、磨いていく必要があるのだ。


これは、はたして、恋愛のテクニックと呼んで良いモノだろうか。
例えば、杉本彩はその言動から恋愛上手であるというイメージが付与されているが、彼女の言動をそのまま交換可能なものとして取り入れていくことがモテることなのだろうか。
例えば、石田純一の言動はどうか。それをそのまま取り入れることがオトナな恋愛をすることになるのだろうか。
例えば、村上龍のエッセイはどうか。その世界をそのまま生きることがイケテルことなのだろうか。


おそらく、人々はこれらメディアの情報を自分の実践の中に持ち込み、身を持って意味を探り、その応用を経験するのだろう。
実践に持ち込んだ時点で、杉本彩の情報は杉本→私の情報となり、石田の言動は石田→私の言動となり、村上の物語は村上→私の物語になるのだろう。
杉本→私の情報、石田→私の言動、村上→私の物語、これらの矢印部分の変化の内実についてはよくわからない。
しかし、これらは、うまく機能するとき、明らかに、身体を伴った自分の行動へと、うまく結び付けられているのだ。(上手にキャラに取り入れられると言ってもいい。)


仮に、概念のレベルだけでこれらを取り入れた場合、「勘違い女(野郎)」「間違っちゃった○○さん(君)」となる。


これは、自分の身体ぬきには磨けない技(アート)である。
機械相手の操作(テクニック)ではない。
自分の身をその都度、実践の世界に投げ出しながら身に付けていく技(アート)である。
だから、10代の時と20代の時では技の内実は変化するし、30代から後も、しわ、はげなど見た目、役職や年収といった社会的な立場の変化によって、次第にその技を変化させる必要がある。


と、まあ、長々書いてきたが、これ位には「どうにかなること」として語れる「恋愛への努力」があると言うことができる。
この意味で、「恋愛」をスムーズに進めるために、かなり応用のきく、「技(アート)を磨いておくことは有意義だ」と言える。


これは、「これから良い恋をするための努力」とも言えるし、「現在付き合っている相手への自己鍛錬」とも取れる。
その意味で、「明日から使える」のである。



さて、さて、
非常に教育的になってきてしまった。
この続きはもうちょっと実践的な話を考えよう・・・