ショータ氏の日記から2「シェイクスピアは何を書いたのか」

ショータ氏の日記http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20070926#c を読んで考えた続き。


ショータ氏は、恋愛のどうにもならない部分についてシェイクスピアを例に語っている。
恋愛の「どうしようもなさ」は「どうにかなる」部分への努力でもって引き立てられると。
それがロマンだと。

その構造は理解できるが、中身がいまいち納得できない。
なぜだろうか。


私なりのシェイクスピアの解釈に沿って追ってみよう。


シェイクスピアは特に登場人物に、変装、異装(異性への変装)、道化、双子など、現実的に「どうにかなる(論理的に説明可能な)」設定を組み込んで筋を立てる。
これらの装置は、ショータ氏の指摘通り、確かに、それぞれのお話、筋の中で、恋愛感情という「どうしようもなさ」を析出し、独特の後味を残す役割を果たしているように見える。


しかし、シェイクスピアを語る時、もうひとつの観点があることを忘れてはいけないだろう。
それは、劇を見ている私たちの視線である。
作品には、それぞれ、固有の筋書き(ドラマ)があり、その流れにそって喜劇にも悲劇にもなり、展開する。
喜劇や悲劇のお話の流れ、物語のまとまりを「劇中世界」と表現すると、実は、もっと大きな意味のまとまりである「演劇」という次元(レヴェル)を設定することができる。
「演劇」は「劇中世界(お話の流れ)」だけでは成り立たない。
「演劇」は、「劇中世界(お話の流れ)」だけでなく、観客の視線を得て初めてとして成立するものである。
シェイクスピアは、まさにそれを意識して作品を書いている。


例えば、喜劇の中で、道化(フェステ)や卿(ナイト)に「三人目の阿呆は誰だ」という題の二つのロバ(または道化)の顔が書いてある絵について語らせたり(つまりその絵を観ている者が三人目の阿呆)、劇の常套句(トポス)として観客まで巻き込む台詞を織り交ぜたりして、劇中世界の筋(ドラマ)の外側をあえて意識させる。

この場面自体は、喜劇としての大筋(どたばたからハッピーエンドに至る)に、大きく影響しない。
ただ、確かに挿話として観客に働きかけ、影響を与えることで、筋(ドラマ)をもう一つ大きな舞台上演物である「演劇」に至らしめる機能を有している。


この事から、シェイクスピアの作品が恋愛の「どうしようもなさ」を「どうにかなる」ものを使って炙り出しているという指摘は一面的であると言える。
筋(ドラマ)の分析では正しいと言えるが、観客を取り込んだ「演劇」としてシェイクスピアを語る時、この解釈は通用しない。
そっくり、もう一度、筋書きは観客の視点という「どうしようもなさ」に包まれてしまうのだ。


「劇中世界」の筋は「恋愛」という物語を描いているが、観客はそれを、劇場という空間や周りの観客をも含んだ、「その場」で観る。目撃するのだ。笑ったり、怒ったり、はらはらしたり、泣いたり、声をあげて観る。この総体が「演劇」という経験を作るわけで、「劇中世界」の筋のみが「演劇」を作るわけではない。
よって、「劇中世界」の筋である「恋愛」が、それだけで「演劇」のわけではない。


「どうしようもない恋愛の部分」だろうが、「どうにかなる恋愛の部分」だろうが、筋の中にある「恋愛」で「演劇」が完結するわけではないのだ。

人々は劇中世界に入りつつ、時に自らの現実世界に戻り、ドラマと現実を行ったり来たりしながら「演劇」を味わうのであり、決して筋に没頭した中でのみ演劇を追っているのではない。
周りの観客の息遣いや劇場の反響を取り込みながら、昨夜の記憶や明日への期待を織り込んで、筋を自分のもとに手繰り寄せる。そして喜怒哀楽を経験する。
二度と同じ日がないように、二度と同じ演劇はない。
だからシェイクスピアの脚本が名作と呼ばれ、同じ筋が何度も上演されるのだ。


さて、ショータ氏はシェイクスピアを現実の世界においてをや、と仰るが、果たして、どうなのだろうか。

今、まさに、恋愛関係にある2人を想像するとき、その恋愛関係を良きものにするために2人が為す努力は、果たして「恋愛への努力」だけなのだろうか。