ショータ氏の日記から3「『自己教育的な恋愛』はどう生きられるか」

ショータ氏の日記http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20070926#c を読んで考えた続きの続き。


27日の自分の日記http://d.hatena.ne.jp/shinpants/20070927に書いたことより、
「恋愛への努力」は具体的に存在するし、可能だ。ということになっている。
しかも、今、恋してようがいまいが、彼氏彼女がいようがいまいが、関係ない。
「明日使える」ものばかりときたもんだ。


さあ、みんな、大いに努力できるじゃないか!
がんばろう、となる。
かもしれない。


さて、この発想は非常に教育的である。
そこで、この、明日から(いや今日から)使える「恋愛への努力」を踏まえて、経験的に恋愛の技(恋愛技)を磨いていくタイプの恋愛を、「自己教育的恋愛」と呼ぼう。


それぞれのマスターは杉本彩であり、石田純一であり、村上龍であり、その他メディアの、また身近な、身の回りの恋愛巧者でもある。


老若男女、自分の身の丈に合った恋愛マスターを手本に、相手をときめかせ、夢心地にする技を磨いていく。
驚くべきことに、自然の摂理として、自分自身の容姿や立場が変化すると、必要となる恋愛技の内容も変化する。
そのため、切磋琢磨に終わりはない。


生涯、恋愛への努力を続ける必要があるのだ。


なんか、いかにもだ。
「すべての人間が、生涯に渡って自分らしい恋愛スタイルを追い求める、向上心にあふれた社会を実現する。」なんて。
ビバ「自己教育的恋愛」。


でも、意外と、私達はこのように「自己教育的恋愛」と「恋愛への努力」を燦然と掲げられても、「ふふふ」と笑って「そうよねー」と受け流すことができる。
「がんばるわ、明日から」「がんばるわ、でもまずは○○が先ね・・・」と。


実は、「恋愛への努力」に納得するのとは別のところで、私達はもう一つの、別な生活を送っている。
いくら週刊誌の特集やワイドショーで恋愛マスターへの道を刷り込まれ、シュミレートを繰り返していても、実際の恋愛関係では不安が付きまとうことを知っている。
いくら私にとっての理想的な恋愛や付き合い方を追い求めても、本当にこれでよいと実感することは難しいと知っている。


実は、私達は、「恋愛への努力」を掲げる一方で、不安や至らなさを「当たり前」だと思って生活している。
(つくづく当たり前だ。)


これは、「恋愛への努力」から逃げているからだろうか?
私たちが、具体的に「恋愛への努力」ができるにもかかわらず、恋愛に対する不安や至らなさを「当たり前」として生活しているというのはいったいどういうことか。


具体的というか、卑近な例でイメージを膨らましてみる。


例えば、「恋愛への努力」はしていても、背の高さはどうしょもない。
顔も、手足も、スタイル全般、声、金、暇、それぞれけっこう、どうしょうもない。宝くじ当てて整形したらいけるか?でも・・・
整形しても、杉本彩にはなれない。(当たり前だ)
石田のライフスタイルは支持するが自分はとてもできない。(当然だ。芸能界でなければ社会的信用が危うい。)
村上の小説やエッセイは読むと興奮するが、私は結局同じ毎日を送ってる・・・(これも普通だろう。たまに真に受けている男子も見かけるが。。。)


ということは、「恋愛マスターへの道」って、なに?途中で消えてるの?
「恋愛の努力」は過程にのみ意味がある感じ?
となる。


ここで、ショータ氏の論を当てはめてみる。
完璧な恋愛を追い求める「どうしようもなさ」と「なんとかできる」部分での努力の関係。
恋愛へ努力すればするほど、「どうしようもない」究極の恋愛が純化されると。
それがロマンだと。


よし、じゃあ、不可能とわかっていて努力することがロマンの真髄なんだ。
「自己教育的恋愛」に向けて「恋愛への努力」に励むべし!!


でも、ちょっとまてよ、
そういう究極の恋愛とか、それへの努力、それがロマンって、ポテチ食べながら観る恋愛映画や演劇、もしくは、昼ドラやワイドショー、恋愛エンタメ番組にありがちじゃない?


つまり、私達は、一方で究極の恋愛関係とそれへの努力という世界に入り込んで影響され、もう一方の現実世界でポテチ食べてるという二重の生き方をしているのではないだろうか?

シェイクスピアは、この人間の二重性を見抜いていた。(むしろ、その二重性がわかっていないと名作と呼ばれる脚本は書けないのだろう。)


恋愛をロマンだと言うのは正しい。この段階でショータ氏は正しい。
ただ、ロマンはポテチと二重に存在している。
「現実」はロマンとポテチぼりぼりの両方から成り立つ。
「演劇」が筋と観る者とから成り立つものだったように。


ロマンは「現実」ではないというのはウソだ。
ロマンと、ロマンを追い求める世界も、確かに私たちを捉えて離さない。
実際にロマンに向かって努力する。それは「現実」である。

ただ、私達は、同時に(息継ぎもそこそこに)、もう一方で「ポテチぼりぼりの現実もある」という事を言わなければならない。
だってまさにそこに私の身体があるのだから。


だから、ロマンへの努力(今回は「恋愛への努力」)を称揚することは、すっごく慎重にやるか、パロディ化できるぐらい軽くする必要がある。
なぜなら、そこにはロマンを共有できない可能性のある他者が存在するからだ。


いや、むしろ、自分で語ったロマンに乗り切れていない自分の存在を忘れてしまう危険があるのだ。
他者は他人という意味ではない。
他者とは、まだ見ぬ、語れぬ、世界への新しい感覚への可能性のことである。

安易にロマンを称揚し、それへの努力を正当化することで、その可能性を切り捨ててしまうこと、これが、私には一番恐ろしい、非人間的な行為であるように思える。