恋愛への努力を称揚することの暴力性

例えば、

私は、恋愛に向けて努力してきた。
服装や髪型、メガネや無駄毛やデオドラントにも気を使い、清潔で美しく、健やかな毎日(花王コーポレートステートメントより)を男性・女性として送ってきた。

とする。


そして、

結果、それなりに恋愛してきた。

例えば、Aとはこんなお付き合い、Bとはこんなお付き合い、Cとは・・・

と言うことができる。


こういう語り方はよくあるし、とても納得できる。


一方で、

メディアが流す流行の格好や話題、言葉の使い方に精通するを含めて、魅力ある人になることは、まだ見ぬ出会いに向けてコミュニケーションの可能性を広げる

とも言える。


と言ったそばから茶々を入れるが、
これを読んだ方は、たぶん、他人とのコミュニケーションを想定しただろうし、ひょっとしたら異性の「他人」とのコミュニケーションを想定したかもしれない。


いや、実際、コミュニケーションの対象は、犬でも、猫でも、イルカでも、クジラでも、植物でも、可能なのだ。


人は、努力するとき、何らかの対象を設定している。
努力は対象に向かってする。
当たり前だ。

だから、努力の先にある「まだ見ぬ出会い」が、ある程度絞られてイメージされていることは当然のことである。
「恋愛に向けた努力」という場合、多数の人は「異性の他人で日本人」位にまでは絞られているだろう。
でも、上のように、コミュニケーションの対象は様々なのである。

前提となっているイメージは、ただ、あくまで努力を起動させるためのきっかけに過ぎず、その努力の結果、どのようなものと、どういったコミュニケーションが起こるかは実はわからない。


もし、努力が、当初想定していたことの範囲内の結果しかもたらさないとすれば、それは不自然なことである。

自然と、想定しない出会いやコミュニケーションが起きた時に、そのわからなさを、当初想定していた努力の延長線上で、成功や失敗としか捉えないこともまた、不自然である。


恋愛関係において、「こういうときにこうなるはずだ」と想定していたことがそうならなかった時、ある意味「失敗」である。
ただ、それが面白いと思えるということは、そのとき、すでに関係は、「恋愛」の枠を飛び出しているのだろう。

実際の恋愛関係は、「恋愛」の枠を軽々と飛び出して、さらに豊かな関係を築いているものではないか。
それを、当初から想定できるものへの努力とその失敗という、同じ次元で語ろうとするのには無理がある。

不自然な無理を称揚すると、関係する周りを傷つける。

よって暴力的である。


わかりにくいか。。。
あたしゃ、文章がまだまだ未熟である。。。