『シガテラ』古谷実考

「おまえはだれだ!」
と言いたくなる、自分の中に生まれてくるどきどき感。
これがこのマンガのテーマと見た。


多くの人はおそらく、特に10代の頃、なにかどきどき、わくわくすることがあったはずだ。
夢中になること、我を忘れること、余計なくらい考えてしまうこと。
20代や30代、特に働きだしたら、日常はすぐに忙しいルーティーンへと置き換わってしまう。


あの頃の、その、君の、ぼくの、若い頃のどきどきは、いったいなんだったのだろうか。
いったいどこから沸いてきていたのだろうか。


仕事がら小学生とよく関わるが、子ども達はどうでもいいことに盛り上がる。
同じ状況を、何度も繰り返して笑ってみたり、怖いのにあえて近づいてびっくりしてみたり。
彼(彼女)らはそのたび、夢中になって体全体で反応を示す。
彼(彼女)らの無邪気さは、学校のエネルギーであるばかりでなく、地域の行事でも欠かせないエネルギーになる。
地域行事を企画する大人達のコミュニケーションをつなぐ柔らかな鎖のような効果がある。
子どもたちは、自前のわくわく、どきどきを武器に、周囲の大人に世話を焼かせて、その周りの大人達と他の子ども達に通じる共通の充実した場を作り出す。


シガテラには、ぼくたちがいまや日常の中に飼いならしてしまったどきどきやわくわくを抜き出している。
抜き出されたいくつかのどきどきやわくわくを通じて、周りの人間がコミュニケーションの輪を作っている構造を書いている。
なぜだか知らないけれど、バイクにはまる。
なぜだか知らないけれど、いじめっ子がいる。
なぜだか知らないけれど、告白されたり、飼いならせない衝動と戦ったり。
なぜだか知らないけれど、親が破産したり、ネットで殺人依頼できちゃったり。


なぜだか知らない、わけのわからないところのものに影響され、どきどきしながら、わくわくもしながら、共同体の仲間がコミュニケーションを展開して、それぞれの日常が進んでいく。


予想不可能という点で、はらはらとは言いづらい、どきどき感。
恐怖心とは前向きである点で異なると言える、わくわく感。
一貫して、予想できないために恐ろしいことになる可能性という緊張感を保持しながらも、前向きに生きていくコミュニケーションへと開かれている気分を描ききる絵とストーリー。
すばらしき、古谷実の描写力であり、まさにぼくがなんとも応援したくなるマンガ家である理由である。


最終章で、「がんばって 望んで」「大人になって 強くなった」オギぼーは、自分の事を「僕はつまらない奴になった」と言う。
そして、新しく付き合っているフィアンセに、第一巻で「そこまでいいと思えない」と言っていた「ドゥカティ」を買いたいのだと告げる。これからずっと一緒に居ようとフィアンセへの言葉を添えて。
そんなどきどき感という「おまえ」を見失うと、人はコミュニケーションにまで、ある種のエネルギーを失うのではないだろうか。
一方で、同じ「ドゥカティ」がまったく違って見えるようになったのは、オギぼーとその周りのどういった変化なのだろうか。
というか、おまえは、まったく、だれだ!

恋愛はバーチャル、結婚はリアル

恋愛ならいいけど、結婚は無理と言われた。
お互い、好き同士ではある。お互い、良さを認め合ってはいる。けど、結婚はできない状態。
原因はおそらく、お互いの生活があるからだろう。
お互いの生活を結婚に向けて擦り合わせるのは、一種、暴力行為だ。リアル(現実)の、どうしようもない生活の一部分を、結婚を前提に、相手に割く必要がある。
時間や労力だけなら、「気持ちの問題(心の持ちよう)」で片付けられる。
ただ、生活となると、場所と他人との関係を抜きにはやりくりできない。


恋愛はバーチャル(仮想的)。時間と労力で解決可能。気の持ちようでうまくもできる。
結婚はリアル(現実的)。場所と他人との関係を組みなおさなくては。精神論では片付きませんわ。

「恋愛」のすばらしさ

仕事してた時は仕事が生きがいだった。
気晴らしは趣味の領域でこなしてた。
だから、地域のつながりがなくても生きてこれた。
でも仕事辞めたら急に地域のつながりの重要さに気づかされた。


なぜだろう。


便利さを追求して作ってきた現代の社会は、私たちのつながりを仕事と趣味の領域に二分してしまってるのだ。


都市の家庭はとっくにプライベート化して、地域とのつながりが切れている。
仕事の持つ意味はどんどん脱色され、経済合理性の論理で塗りつぶされている。
趣味の世界は生々しい生活とは距離をとる。


「生活」が孤立している。
掃除したり、洗濯したり、食事を作ったり、
寝たり、風呂に入ったり、トイレ行ったり、ボーっとしたり。
生々しいそれらの「生活」が孤立している。


皮肉だが、情報ネットワークが発達した現代で、地域につながりを持たないと、社会は全体主義になる恐れがある。
個別化の先にあるのは、メディア(テレビやネット)から流布される大きな物語の復活だ。
政治的な操作が加えられた大きな物語の復活だ。


「生活」が個別の領域に閉じ込められていることの恐ろしさよ!


私たちが地域とのつながりを犠牲にして得ているものは膨大なプライベートの「生活」の時間だ。
でも、いくらプライベートの「生活」を確保しても、一人で自室にこもる毎日は、容易にメディアの流す物語に回収されてしまう。
やりたいことをやろうと、プライベートの時間を確保したのに、流される。
自分がわからない。


だから、本当に自分のやりたいことを見つけようとする。
本当の自分、素の自分が、自分の足でできることを見つけようとする。
いったいそれは、どんなことがあるのだろうか。
レパートリーを考えてみたが、「哲学」と「恋愛」くらいしか思い浮かばなかった。


ここで、「恋愛」を考えてみよう。
恋すると今までの「生活」がずっと色濃く感じられる。
なまの自分が、「生活」の中で恋焦がれ、心を痛めている実感がある。
恋愛関係に悩み、送る「生活」は苦しくても生きてる実感がある。
だから「恋愛」はいい。「恋愛」しろよと勧めたくなる。
「恋愛」は孤立した私たちの「生活」を他者に開き、つながりを回復する。
これは全体主義の物語に対抗する。


恋愛万歳!


でも待てよ。
なんか安易じゃないか?
確かに「恋愛」はいいものだけど、ちょっと変じゃないか?
この違和感は何なのだろうか。
最後の「恋愛万歳!」と手放しで「恋愛」を称揚してしまっていいのだろうか。
「恋愛」を神格化してしまったら、「恋愛は善いものだ」という全体主義になってはしまわないだろうか。

A.O氏講義ノート2

 ヨーロッパにおけるルネサンス以前、人間は「工作する人(ホモ・ファーベル)」だった。
 ルネサンス以降、人間はクリエイティブな存在となる。ミケランジェロダヴィンチという偉大な芸術家をモデルとして、特に、18世紀(啓蒙の時代)以降、人間は「創造する人(ホモ・クレアトール)」となる。


 「創造する人」とはどんな人間だろうか。
 ルネサンス以降、人間はどのように変わっていったのだろうか。


 中世以前、悪魔払いや脱自(エクスタース)によってとられていた生のバランスは、18世紀以降、医学により病名を付け、治療する制度へと変わっていく。これまで在野の中に描かれていた狂人(乱舞、道化、愚者、妄信など)は治療の対象として精神病院へ集められた。
 そこには、医学により裏付けられた「正常な人間」と「病人」が生まれた様子が窺える。
 政治においては、いわゆる啓蒙の思想(自らの足で歩くことを規範として取り入れ、それを広めていく)に染まった人々が現れ、理性による契約で社会を作ることを主張するようになる。正常な理性は契約の条件となる。
 一方、自然科学が体系化する中で、職人的な技術レベルから脱却した、科学者という存在が生まれてくる。
 彼らは、社会的な判断を中断した、科学合理的な知識の体系を作り出した。科学者は、科学の方法において万能であった一方で、科学の方法により自らが生み出したものを、実際の社会において自ら判断して使えないという意味で無能でもあった。


 現代の私たちの間には、自らの努力により獲得できる「本当の人間」「本当の自分」のイメージが広く流布している。誰もが理想的な人間の像を持っている。その理想的な人間像を成り立たせるために、私たちは無意識かもしれないが、必ず、人間と対比された動物性と、正気に対比された狂気を想定している。
 「創造する人」は、政治的に脱色された万能の科学が生み出す技術を駆使して、啓蒙の思想により自らの理性で判断し行動し、範囲を広げてきた。
 その裏で、動物性を想定しながら。
 その裏で、狂気を想定しながら。


 この、「本当の人間」「本当の自分」がいるとする思考を「同一性の思考」と呼ぶ。
 これは暴力の可能性を多分に含む。例えばアウシュビッツを省みればよい。理性と呼ばれるものが非情な狂気を生む。究極の動物性を生む。
 だから、今、フロイトに注目する必要がある。
 「本当の・・・」というイメージが、そこにあるであろう実体からズレるという事実に注目する思考を「差異の思考」と呼ぼう。人は、言葉で捉えようとしたとき、必ず取りこぼし、また言葉の枠をすぐにはみ出してしまう。そのズレに注目しよう。そのズレの持つ力がまた、見えてくるかもしれないのだから。

 「差異の思考」とはなにか。次回以降また考える。

A.O講義ノート1

精神分析における夢について


言葉にできるのは見たと思っている夢である。
見た夢そのものは不可知である。
さらに、語る相手に気を使うので(転移)、語る内容が変化する。
従って、その人の見た夢(不可知な部分)と、見たと思っている夢(語れる部分)と、伝えた夢(語った部分)は、それぞれズレている。


どうやら、精神分析(フロイト)は、このズレを読み解けると考えていたらしい。
このズレを前提とすることで精神分析が成り立っているらしい。


いったい、読み解く先にあるものは何なのだろうか。
その人の本質が見えてくるのだろうか。
それとも、別ななにか、その人の関係かなにかを照らし出すのだろうか。


ズレを読み解くという発想は新しい。


言葉は語っているその人とストレートに結びついている、と考えるのは危険だ。

恋愛への努力を称揚することの暴力性

例えば、

私は、恋愛に向けて努力してきた。
服装や髪型、メガネや無駄毛やデオドラントにも気を使い、清潔で美しく、健やかな毎日(花王コーポレートステートメントより)を男性・女性として送ってきた。

とする。


そして、

結果、それなりに恋愛してきた。

例えば、Aとはこんなお付き合い、Bとはこんなお付き合い、Cとは・・・

と言うことができる。


こういう語り方はよくあるし、とても納得できる。


一方で、

メディアが流す流行の格好や話題、言葉の使い方に精通するを含めて、魅力ある人になることは、まだ見ぬ出会いに向けてコミュニケーションの可能性を広げる

とも言える。


と言ったそばから茶々を入れるが、
これを読んだ方は、たぶん、他人とのコミュニケーションを想定しただろうし、ひょっとしたら異性の「他人」とのコミュニケーションを想定したかもしれない。


いや、実際、コミュニケーションの対象は、犬でも、猫でも、イルカでも、クジラでも、植物でも、可能なのだ。


人は、努力するとき、何らかの対象を設定している。
努力は対象に向かってする。
当たり前だ。

だから、努力の先にある「まだ見ぬ出会い」が、ある程度絞られてイメージされていることは当然のことである。
「恋愛に向けた努力」という場合、多数の人は「異性の他人で日本人」位にまでは絞られているだろう。
でも、上のように、コミュニケーションの対象は様々なのである。

前提となっているイメージは、ただ、あくまで努力を起動させるためのきっかけに過ぎず、その努力の結果、どのようなものと、どういったコミュニケーションが起こるかは実はわからない。


もし、努力が、当初想定していたことの範囲内の結果しかもたらさないとすれば、それは不自然なことである。

自然と、想定しない出会いやコミュニケーションが起きた時に、そのわからなさを、当初想定していた努力の延長線上で、成功や失敗としか捉えないこともまた、不自然である。


恋愛関係において、「こういうときにこうなるはずだ」と想定していたことがそうならなかった時、ある意味「失敗」である。
ただ、それが面白いと思えるということは、そのとき、すでに関係は、「恋愛」の枠を飛び出しているのだろう。

実際の恋愛関係は、「恋愛」の枠を軽々と飛び出して、さらに豊かな関係を築いているものではないか。
それを、当初から想定できるものへの努力とその失敗という、同じ次元で語ろうとするのには無理がある。

不自然な無理を称揚すると、関係する周りを傷つける。

よって暴力的である。


わかりにくいか。。。
あたしゃ、文章がまだまだ未熟である。。。